「教育」

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では、近年の学校教育を振り返ってみよう。

2000年ごろから順次導入された、「総合的な学習の時間」。

これが、具体例となる。

当時の雰囲気は、学習内容3割減で、評価のない学習で、

生徒の学びを伸び伸びとさせ、落ちこぼれをなくす、だった。

こんな夢みたいなことを文科省が語り出した。

寺脇研、山際隆は罪深いと思う。

山際教授は鹿児島県で講演をしておるが、講演内容は至極まともなものだっただけに、

現場を知らない人という致命的な欠陥を持った学者だった。

そして、「ゆとり教育」の始まりである。

「数学」より、総合的な学習の時間!と、現場は混乱していた。

まず、「数学の学ぶこと」がなくなったと言っても過言ではない。

簡単になりすぎた。

作問しようにも、演繹すれば解けないことは無いが、

「観点別評価」などという、くだらない評価制度も同時に導入されたため、

基礎基礎本を問わなければならなかった。

つまり、言葉の意味さえ知っていれば、評価される。

暗記科目になったわけだ。

試験は簡単、授業は体験型、基本的な座学は苦痛になっていった。

教育産業は大きなマーケットだろうから、この流れに即した問題集、テキスト、

指南書、相当売れただろう。

こんな形で、教育に変なカンフル剤を打ち込まれたために、

いまだに「脱ゆとり」などといってはいるが、それができるのは私立であって、

公立は、あくまでも、学習内容は増えていない。

これは、アメリカが仕組んだのかは知らぬが、

自国の生徒を、ここまでダメにしていった様子を目の当たりにし、

管理職はそれに迎合し、現在に至る経験をした。

あくまでも、管理職は、指導要領の中身にしか興味がないので有る。

つまり、無能そのものだ。

だからこそ、全体の学力を落とさないためにも、寺子屋で、

少人数で、昔の教科書で、「学習」すべきであったのである。

それならば、教師が、教える内容を、フレキシブルに修正しやすい。

集団教育というのは、時として、間違った方向に行くと、

現在のように取り返しがつかなくなる。

(続く)